蟹漬関連史料 翻刻(4) 水町権三郎書簡 図北08678 22-12051 (明治42年7月22日)

史料本体

「鬼丸北川家資料」
水町権三郎書簡 図北08678 22-12051

翻刻文

【封筒表】
佐賀県佐賀市与賀町字
辻ノ堂 
馬渡多蔵様

【封筒裏】
東京市麹町区元
園町 
 水町権三郎

【本文】
酷暑之候、御一同様
益御安康奉賀候。小生モ
日増ニ幾分ツ、快方ニ相
成候間、御安意被下
度。又、御通送被下候か
に漬昨朝着、直ニ味
候処、二三年口ニセサル
特品ニテ、為メニ飯一杯
余分ニ食シ候。かに漬
御送りニ付、不一方御
配慮厚ク御礼申
上候。直ニ御礼書可差
上筈ノ処、昨日参
事会故、元園町ニ帰
り身体疲労致候。代筆
トハ存候モ、可成自筆
ニ至度、一日相延候段、不
悪 御許被下度。
当年ノ暑サハ実ニ酷シ
ク、誠ニ病弱故、尚一層
余分ニ感シ候。先ハ御礼
迄。匆々敬具

七月廿二日 権三郎

御兄上様

三木の素人読解

同年7月14日そして17日からつづくやり取りがこちらになります。
ここで初出になる情報として明治33年には東京都に住まっていた馬渡氏が明治42年には佐賀県佐賀市与賀町字辻ノ堂のあたりに引っ越しをしているようです。

さて馬渡氏は石丸氏から譲り受けた蟹漬を東京・麹町に住んでいる弟・水町権三郎に転送していました。
その御礼の手紙にあたるのがこちらの書簡になるのでしょう。
14日のやり取りによると
「水町ノ急変何時電報来ル哉難計ノ今日」
と体調が優れない様子がうかがえる水町氏。

そんな氏曰く
「酷暑が続くなか届いた蟹漬をすぐに食べてみたところ、
2-3年ぶりの特別な味に思わず権三郎はご飯一杯余計に食べてしまいました。
厚く感謝。」
とのこと。

蟹漬!えらい!
お役に立っていてよかった~~!

所感

蟹漬に対する特別な思い入れがうかがえる書簡でした。
これまでに蟹漬に馴染んでくださっていた人たち、またこれから興味を持ってくださる方々のために未来に残していけるとよいなと改めて思うところです。

蟹漬を馬渡氏に提供した石丸勝一氏、そしてそもそもこの書簡群についてさらに詳しく知りたい方は、
佐賀大学地域学歴史文化研究センターさんが公開されている
「研究紀要」第5号 63ページ~ 串間 聖剛「佐賀市長・石丸勝一と北川家資料について」
もご参照ください。

さっと知りたい方はこちら→石丸勝一 – Wikipedia
参事会に参集されるということは水町権三郎氏も一角の人物なのでしょう。

蟹漬関連史料 翻刻(3) 馬渡多蔵書簡 図北08694 22-12067 (明治42年7月17日)

史料本体

「鬼丸北川家資料」
馬渡多蔵書簡 図北08694 22-12067

翻刻文

拝啓。御願申上
候蟹漬ハ特別
御厚配ノ御蔭ニテ、
本日御持出被下、誠ニ
非常ノ御手数奉
掛恐縮ニ不堪候。
早速只今小包
ニ仕立、水町へ送
付。当該品ハ中々
手ニ入ザル昨今ノ時節
ナルヲ、高兄ノ御仁
配ノ御蔭ニテ、漸ク
手ニ入候事情モ申
遺候。本人も高
兄ノ御芳情ハ殊
ニ難有被存候事
ト奉存候。

右、一寸御礼迄。
 已上
七月十七日夜  
   馬渡
石丸君

三木の素人読解

7月14日のお手紙に続くやり取りだと思われます。
早速馬渡氏の手元に届いた蟹漬を、弟・水町氏のもとに転送したこと、そのことへの御礼を篤く伝えている様子です。

注目点はやはり
「当該品ハ中々
手ニ入ザル昨今ノ時節
ナル」
の一文でしょう。
実は馬渡氏がこの時点でおそらく佐賀市内に住んでいることが次のお手紙から推測されるのですが、佐賀に住む馬渡氏から見ても明治42年(1909年) にはすでに蟹漬が希少といって大げさではない認識になっていたことが分かります。
多少のヨイショはあるのかもしれませんが。

所感

気になった点が一つ。
7月14日に依頼した蟹漬が、7月17日にはもう馬渡氏の手元についているという早さです。
一方では希少と言われながら、他方石丸氏にとっては常備しているものないしすぐに手に入るものだった、と考えてよいのだろうと思います。
それにしても友情に厚い石丸氏です。

蟹漬関連史料 翻刻(2) 馬渡多蔵書簡 図北08696 22-12069 (明治42年7月14日)

史料本体

「鬼丸北川家資料」
馬渡多蔵書簡 図北08696 22-12069

翻刻文

【封筒表】
石丸様 馬渡
 願用

【封筒裏】
(記載ナシ)

【本文】
拝啓 本日モ中々ノ
猛暑ニ御座候。如何御
凌き候哉。小生◇◇モ昨
今両日ハ只暑ヲ追
ケル◇風計リニ一日ヲ送リ
候。御承知ノ通、水町ノ急
変何時電報来ル
哉難計ノ今日ナレハ、
清水川上ニ避暑ニも
出掛ル能ハス当惑仕候。 
扨、此夜ハ又々御厄
介テニ村ヘモ蟹漬
ノ事御願申上候処、早
速御配神被下深謝
ニ堪ヘス、水町ノ嗜
好ハトニカラスノ極ノ張
リニテ蟹ノサキニニスルノヲ
切望ノ由ニ御座候間、右
御兄御配神被下候様
奉願上候。序ニ入江
モ切ニ注文申出居候間、
両家分蟹本便で
送り度積ニ御座候。
右御願申

其外ハ拝晤。頓首

 十四日  
    多蔵
石丸君

三木の素人読解

佐賀市赤松に住む石丸勝一氏と、9年前のやり取りによると東京都愛宕に住む馬渡多蔵氏のやり取り。
しかし続く書簡によってこの手紙の時点で馬渡氏はおそらく佐賀県佐賀市与賀町字辻ノ堂に引っ越しをしています。

手紙の内容は前回につづいて馬渡氏の弟・水町氏が話題があがりますが「水町ノ急変何時電報来ル哉難計ノ今日」との通りどうやら水町氏の体調が優れない様子。
そこでまた石丸氏に蟹漬をご厄介になりたい、東京に送ってくれないかというお手紙のようです。
新たな登場人物である入江氏からもついでに切に注文をいただいているとのこと。

所感

体調が優れないところに蟹漬。郷里の味で食欲を取り戻し快復を図らんとするところなのでしょうか。
それにしても水町氏の体調が心配です。
この7月14日のお手紙に17日、22日と続きます。いったいどうなってしまうのでしょうか。
記事の制作まで少々お待ちくださいませ。

蟹漬関連史料 翻刻(1) 馬渡多蔵書簡 図北15369 22-18742 (明治33年9月24日)

史料本体

「鬼丸北川家資料」
馬渡多蔵書簡 図北15369 22-18742

翻刻文

【封書表】
佐賀県佐賀市赤松町
石丸勝一殿

【封書裏】
東京芝愛宕下町二ノ四
馬渡多蔵

【本文】
拝啓。天候益
御安康御訣栄  
欣然小生方モ一同被
事乍余事御放
念是祈候。陳甚
御頼申上兼候得共、
愚弟水町氏佐賀
蟹漬ケ大好物ニテ是迄
佐賀人ヨリ貰イケル
分トモ、後石井カ尽力ニテ
五◇カニツケ手ニ入候モ、夫
レモ最早食尽シ何卒
貴台ヘ相願候。小包
ニテ御送付被下候趣御頼
申上呉候様本人ノ申
出ニ、不得止右御依頼
申上候間、ブリツキ缶詰
歟茶入レノ丸盒一斤入レ位ノ
量ニ一杯丈ケ御買入、小
包ニテ御送付被下度。届所ハ       
東京麹町区元園町
一丁目四十二番地水町
権三郎方ヘ宛御発送
被下度。届ケ品振代
小包代共、御一報被
下候ヘハ、水町ヨリ直ニ御
送金可申上候間、此
段御申上候。乍◇
御一同様へよろしく被仰
上被下度候。 頓首

九月廿四日夕
   馬渡

~~~~~~~~~~~~~~

石丸君

 侍中

再拝 兼テ奉願候佐賀
段通モ、十日前来月ハ
出来上ル様、兼テ御報知
ニ相接シ、水町モ大ニ乗々
相伝居候間、来月ハ御発
送被下候様、尚御尽力被下
度。又右段通モ届所ハ
前記水町方ヘ宛御発
送被下候様、段通代モ
御申越被下候次第、直ニ
申上可申候也。拝具

三木の素人解説

佐賀市赤松に住む石丸勝一氏と東京都愛宕に住む馬渡多蔵氏のやり取り。
馬渡氏の弟であり東京都麹町に住む水町氏の話題が出てきます。

まずは馬渡さんからの書簡。
蟹漬が大好物であるという水町氏について語る馬渡氏。
佐賀の人から分けてもらったものをすっかり食べきってしまった水町氏のもとに蟹漬を送ってもらえないかと佐賀に住む石丸氏に頼み込んでいるようです。
弟曰くブリキ缶のお茶入れの丸箱に1斤(=約600g?) ほど入れて送って欲しいという依頼のようです。
代金は水町本人から送金しますと。

後半では別件の話題も展開。
これは佐賀緞通という名産織物の話のようです。
お願いしていた緞通がもうじき出来上がるというお知らせに喜んでいる様子が伺えます。

所感

個人で600gの蟹漬ってすごすぎ!
気象庁提供の東京都の過去の気象データによると夏場の最高気温は既に30度を超えるような気候。
9月のやり取りとはいえ長持ちさせることを想定していたとしたら、やはり当時もそれなりの塩分濃度で腐敗に強く作られていたのではないかと想像されます。
もしもその代金が明らかになったらとても面白いですね。

蟹漬に関する史料の翻刻

竹下商店は自社の歴史を調べることが好きです。

蟹漬について。ゆずこしょうについて。粕漬について。
有明海水産物の盛衰について。
社名に冠する「竹下」一族のことについて(会社の名前は「竹下」ですが現在事業を担っているのは「三木」家というねじれが。約50年前岡山から移住して承継しました)。

会社に残る断片的な資料をまとめ、町に残る史料にあたり、ときに町の古老を訪ねて聞き書きを行っています。
今回はその中から一つの成果をお届けします。

さて佐賀県には歴史資料に関してとても便利なデータベースがあります。
佐賀県立図書館データベース

早速検索窓に「蟹漬」と入力、表記ゆれもよくあることなので「がんづけ」「がん漬」「かに漬」あたりも含めて検索します。
佐賀県立図書館データベース- 横断検索

そうすると目に飛び込んでくる「鬼丸北川家資料」。佐賀市鬼丸地区にある北川家に所蔵されていた資料群ということでしょうか。

その中にある
水町権三郎書簡(①図北08678 22-12051)
馬渡多蔵書簡(①図北08694 22-12067 / ②図北08696 22-12069 / ③図北08697 22-12070 / ④図北15369 22-18742)
・・・を開いてみても一体何が書いてあるのかちんぷんかんぷん。

そこで今回はこれら書簡のうち手紙部分が確認できた①、②、③、⑤について、現代で読める文字に変換を行う翻刻作業に取り組みました。
(「翻刻」についてはこちら)
取り組んだといっても研究者の方、書家の方にお頼りするばかりでした。本当に多大なご支援を賜りました。誠にありがとうございます。
お名前やご所属に触れることについては固辞されておりますので、こちらで言及させていただくのみとさせていただきます。

何回かに分けて更新を行おうと思います。
手紙自身の時系列で以下の順に。
馬渡多蔵書簡 ④図北15369 22-18742 (明治33年9月24日)
馬渡多蔵書簡 ②図北08696 22-12069 (明治42年7月14日)
馬渡多蔵書簡 ①図北08694 22-12067 (明治42年7月17日)
水町権三郎書簡 ①図北08678 22-12051 (明治42年7月22日)

コミックゆずこしょう(?) 第3回「夏味蟹漬」(大石まさる先生)

竹下商店はこのところ蟹漬(がんづけ) にハマっています。
蟹漬への取り組みを深めるにつれ興味を持つことがいっぱい増えました。

シオマネキという生き物の習性
シオマネキが暮らす有明海という環境
「潟遊び」としてシオマネキを採ってきた人たちとその道具
捕まえられたシオマネキと、ご家庭それぞれにあった蟹漬の味
なぜいま蟹漬は希少なものになってしまったのか
その回復を図るには

知れば知るほど・・・面白い!
蟹漬を通じてうっすらと「川副町で水産加工業をすること」の意義に触れているような気がしています。

こんな蟹漬のことをもっと知ってもらいたい、願わくば私が大好きなマンガでと思ったとき真っ先にお名前が思いついたのが大石まさる先生でした。
『みずいろ』では人間と自然が共生する姿を
『りんりんD・I・Y』では生活の中にある道具との楽しみを
『水惑星年代記』では未来においても人間の芯を温かくするものを描き
今も私たちの心を打ち続けているマンガ家さんです。

ダメ元での拙い依頼でしたが事情を聞いて快く受けてくださり、連載のスケジュールが大変な中にも関わらず取材にまで来てくださいました。
先生のペンが描き出す佐賀県の景色
門外不出(?)の道具たちのディテール
愛らしいシオマネキの姿
大石まさる先生らしいキャラクターたち(大好き)

魅力の詰まったマンガ『夏味蟹漬』をお楽しみいただければと思います。








蟹漬のお求めはこちらで
蟹漬(荒) 40g瓶
著者紹介

大石まさる

Twitterアカウント

名作『水惑星年代記』をはじめファンの心を掴む作品を多数生み出す。
好きなマンガを挙げると『おいでませり』『ライプニッツ』などキリがないのですが、
2021年5月現在は「ヤングキングアワーズ」(少年画報社)にて『うみそらかぜに花』を連載中。
これは本当に偶然で驚いたのですが発売中1巻ではシオマネキがたくさん登場するコマがあります

マンガでのご活躍のほか「SFマガジン」等でのイラスト執筆も多数。
(画集販売熱烈希望)

謝辞

蟹採りを教えてくれている大先輩Y氏、I氏、K氏、Y氏。

方言を監修してくださったシェ・ヤマモト 山本揚一郎氏と父。

2019年秋から竹下商店で働いてくれていて蟹漬とたくさんの関わりをもってくれている久保田さん。
大石まさる先生のマンガに憧れて自転車で世界一周するほどなのでこのマンガを一緒に作れてよかったです。

コミックゆずこしょうのページへ

蟹漬(がんづけ) ってなんだろう

有明海に自生するシオマネキを手作業で捕まえ、塩で熟成させた珍味・蟹漬。
がんづけ、がんつけ、がねづけ・・・色々な呼ばれ方があります。
ちょっと驚くほどの塩味と少量を口に含んでも蟹の強いコクを感じられることから、主にご飯のおかずやお酒のアテとして食卓に位置してきました。
かつては農作業の際の塩分補給にも使われていたと聞きます。

原料になっているのは有明海の豊かな干潟に暮らすカニの一種であるシオマネキ。
すばしこいシオマネキは捕まえるのが大変なだけでなく、捕ることができるのは7月~10月と限られた期間。さらに干潮と日照のふたつの条件が重なる短い時間帯しか「カニ捕り」に適しません。
炎天下で遮蔽物もない干潟でカニを探して回るのは大変な仕事です。

捕まえてきたカニの処理もまた重労働です。
消化器に残る泥の洗浄と、肛門~消化器の一部を手作業で除去して臭みを取り除きます。そこに塩を加えながら石臼と杵で身全体をすり潰し、最低でも3ヶ月以上の熟成工程を経たのち調味を加えて製品とします。
カニを塩漬けにする同種の珍味は万葉集でも歌われており、そこからすると飛鳥時代の宮中でも食されていたと解釈されまするような伝統食品です。
しかしまもなくこの蟹漬文化を支えるカニ捕り自体が途絶えてしまうのではという危機感をもっています。

今回はそんな蟹漬とカニ捕りのことをまとめたいと思います。

目次

  1. シオマネキの生態
  2. 日本一の干満が育てる干潟
  3. シオマネキ捕り
  4. 加工について
  5. 結び

シオマネキの生態

シオマネキとは有明海の干潟に生息するスナガニ科のカニで、日本では有明海とごく限られた地域にしか生息しない準特産種です。
この珍しい蟹は、有明海では「がね」や「真がに」と呼ばれています。
シオマネキの特徴といえば片手のハサミだけが異様に発達していることです。
これはオスだけの特徴で、オスの成体は片方のハサミが甲羅ほどに成長します。

シオマネキの姿

なぜ片腕だけが大きくなるのか。それは干潟でメスを巣穴に呼び込むウェービングと呼ばれる求愛行動をとるためのものだと言われています。
大きい方のハサミを上下に振ってメスにアピールするこの行動が潮を招くように見えることからシオマネキと呼称がつきました。

カニといえば肉食のイメージがありますが、シオマネキは植物食で潮が引いたころ巣穴から出てきて、小さなハサミでせっせと泥を口に運び中に含まれる微小生物や有機質を濾して食べています。
シオマネキの近くには、同じく植物食で干潟の表面についた珪藻を食べるムツゴロウを見つけることができます。
シオマネキは梅雨の時期から秋にかけて干潟で見ることができ、秋を過ぎたころには寒さから逃げるように深い巣穴に潜って冬眠するため、カニ捕りの光景は有明海の夏の風物詩でした。

日本一の干満が育てる干潟

干潟

有明海の生き物たちにとって欠かすことのできない干潟。
その柔らかな粘土質の干潟は、九州にある阿蘇山などの火山によってできた火山灰の台地が何千年という長い年月をかけ川から海へと流れ込んで作られました。
沈泥と呼ばれるシルトや粘土の粒子が海水中のナトリウムイオンと混ざることで相互に吸着・凝縮して懸濁物質となりそれが堆積することで粘土質の干潟が形成されました。
そこに日本一と言われる最大で6mもある干満差。
満潮時には筑後川に代表される河川から流れ込む豊富な栄養が干潟の全体に行きわたり、干潮時には酸素の摂取と光合成を行う環境があることで生き物たちの楽園になりました。
栄養豊富で特殊な環境は、有明海でしか見ることができない特産種(固有種)を数多く育みました。
求愛行動でジャンプする姿が愛らしいムツゴロウや、まるでエイリアンのような凶暴な顔をしたワラスボも、有明海でしか見ることができません。

シオマネキ捕り

さて問題のシオマネキ捕りです。
満潮時には巣穴も干潟も海底に沈んでしまうため、シオマネキが食事のために潟に出てくることがありません。そのため、干潮を挟んだ2時間前後がカニを捕獲するのにむいています。

カニの捕り方には2種類あります。
ひとつは干潟に直接入り込んで、巣穴に手を突っ込み巣の中にいるカニを捕まえる「かち(徒手)捕り」と呼ばれる方法です。

山本國夫氏_かち捕りの姿
かち捕りを実演する山本國夫さん

その様子はこのスクリーンショットの出典でもある2003年9月28日にNHK総合で放送された「たべもの新世紀」に詳しいです(取材協力させていただきました)。
改めて簡単に詳細を述べると・・・。
干潟をよく観察してみるとそこかしこに親指大の穴が空いていることに気づくことができます。これがシオマネキの巣になっています。シオマネキたちはこの巣の中から外に出てきて干潟で食事をしています。
すばしっこいシオマネキですが、巣の中に逃げ込むとかえって逃げ場がありません。
干潟のあちらこちらを歩き回りながら巣の中のシオマネキを捕って回るのです。
しかし干潟が底なし沼のように柔らかいため、歩くというだけでも大変なのです。スイタと呼ばれる杉の一枚板で作った「潟スキー」がないと移動するままならぬ干潟。また葦をかき分けて群生地に入ることにも様々な危険が伴います。

スイタの潟スキー
スイタの潟スキー

そこで異なる方法として、港や岸から3~5mの長い網を使いカニを狙う「網捕り」という方法が昨今では採用されています。

網捕り

捕獲道具は捕る人達それぞれ工夫を凝らして自作していますが、警戒心が強く人の姿を見るとすぐに巣穴に隠れてしまうカニを息を潜めて忍耐強く付け狙うのは同じです。

巣穴とシオマネキ
こんにちは

シオマネキが出てきて油断しているところを一気に掬い取ります。捕獲には熟練の腕が必要なので、慣れないと泥しか入らないハズレとなることもしばしば。

しかし達人ともなればこの通り。
https://twitter.com/yuzukosyou_tkst/status/1290591778584723457
う~んすごい。
達人になると一時間で数十匹捕ることができますが、それでも一匹10gしかない小さなカニですので、量を採るには一日仕事になります。

シオマネキたち
オスの爪は大きいので挟まれないように注意が必要

加工について

こうして捕まえたシオマネキたちですが、加工にもやはり苦労があります。

綺麗な水の中で半日過ごさせることで消化器に残る泥をすべて排出させます。
泥をはかせた後、オスの大きな爪は一本ずつ外しておきます。
これは爪と身は硬さが違うため、爪と身を一緒につぶしてしまうと爪の固さに身が負けて身が粉々になってしまうからです。
そのうえで肛門~消化器の一部を手作業で除去します。ふんどしと呼ばれる部位に(人間の)爪を割り込み、慎重に引き抜きます。
雑味を取り除くためには必要なひと手間です。
そうして分離された身と爪にそれぞれ塩を加えながら石臼と杵で身全体をすり潰し、最低でも3ヶ月以上の熟成工程を経たのち調味を加えて製品とします。

竹下商店ではすり潰しの強度によって2種類の製品を作り分けています。
蟹の爪がハッキリと残る「荒」はガリガリとした食感が特徴。この歯ごたえごとそのままお酒のアテとしてお楽しみください。
もう少ししっかりと潰した「つぶし」は蟹の風味豊かなソースのように使うことができます。冷奴やポテトサラダにちょっと足すことで味変に、もちろんそのままでもお楽しみいただけます。
蟹漬 (荒) 40g 瓶
蟹漬 (つぶし) 40g 瓶

結び

と、このように有明海に暮らすことと蟹漬を楽しむことは非常に密接な距離のものでありました。
万葉集の頃から連綿と漁師や農家さんたちが作っていた蟹漬。
珍味製造業者たちが地元のみならず遠く県外に行商までを行うようになった蟹漬。
そしていま、原料に苦労しながらも日本中からお取り寄せのお声をいただく蟹漬。
時代は進んでもきっと同じ魂のものを食べているのだろうと思います。

取材・原案:久保田翔
文:三木雄太